齋藤玄昌
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種痘の図

○ 壬生藩の種痘

ジェンナーが種痘法を発明してから47年後の嘉永2年(1849)7月、モーニッケ が長崎に持参した痘痂によって種痘は成功した。壬生藩医齋藤玄昌も一刻も早く痘苗を入手したいと願った一人であった。
  玄昌は牛種痘の取り寄せを藩主鳥居忠挙に進言し、同年末には伝えられた形跡がある。それを藩主の嫡子に接種し、藩に活着することになった。藩では翌3年2月、洩れなく接種させるため藩権力により強制的措置がとられ、領内全般に種痘が実施される体制ができあがった。

○ 二宮家への種痘接種

齋藤玄昌は医道巧者と讃えられた壬生藩の名医で、二宮尊徳の病気について頻繁に来診 ・投薬してくれた人である。
  尊徳没後、「本邦牛痘之権與」でもある齋藤玄昌は、二宮尊行(報徳仕法の後継者)の二児に種痘をしている。
  尊行は安政年間、日光周辺に天然痘(疱瘡)が流行すると、玄昌に種痘を依頼し長男の金之丞(尊親)に、また次男の延之助(高英)にも行った。その後、富田高慶(尊徳の高弟、後の復興社々長)の娘トクにも種痘を行った。尊行も高慶も、天然痘の犠牲者であっただけに種痘には真剣であった。