齋藤玄昌
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解剖

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○ 下野国の解剖と広がり

宝暦4年(1754)に山脇東洋が解剖を行ったのをきっかけに、全国で解剖を志すものがつぎつぎと現れた。
下野では那須郡の儒者諸葛琴台が、河口信任の著した『解屍編』に疑問を抱き、寛政年間、日光での解剖が『解屍新編』として描かれた。
また、文化2年(1805)高田専修寺(二宮町)の侍医飯山玄両が、天明3年(1783)京都の医 師小石玄俊が解剖を図解した『平次郎臓図』を模写している。その後、「宇津救命丸」( 高根沢町)の当主宇津権右ェ門は、この時代もっとも優れた解剖図とシーボルトが評したが著した『解剖存真図』を、祖母井(益子町)の医師平石謙三に贈っている。

○ 壬生の解剖と広がり

齋藤玄昌が下野国壬生藩医となってから6年目の天保11年(1840)、壬生藩では じめての解剖が行われた。この解剖の会主は玄昌と藩医の石崎正達の二人であるが、他 に勾坂梅俊と五十嵐順智が参加した形跡がある。その後の明治3年(1870)、医師 の田谷隆輔 は仁良川(下野市)陣屋で牢死人を解剖し『解体新正図』として描かれた。その 時に参考にしたのが玄昌らが解剖を図解した『解体正図』である。また、明治8年(1875)塩山(鹿沼市)の鍼灸医小森雲石 は西洋医学にも関心があったようで、『解体正図』を模写している。