齋藤玄昌
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齋藤玄昌

○ 名医 齋藤玄昌

齋藤玄昌は文化6年(1809)、梁田郡羽苅村に壬生藩医齋藤玄正を父に生まれ、天保5年(1834)、父と同じ壬生藩の藩医となり、蘭方医として活躍した人物である。
諱を知柔、通称を玄昌(玄正)、号を一瓢と称し、私塾を開き、門人の育成に当たった。
明治4年(1871)に、明治維新の動揺が収まらないとき、私学校の経営を企画したが、それを果たさぬまま翌5年に64歳で亡くなった。墓は壬生町常楽寺にある。
父が初代玄正を名乗ったことから、知柔は二代目玄昌と呼ぶ。玄昌の跡は門人佐久間玄悦が養子となって継いで、三代目元昌を名乗った。

○ 二宮尊徳への診療

二宮尊徳(1787−1855)は、報徳仕法という独自の方法によって、農村復興事業に取り組んだ農政家である。
安政2年(1854)、真岡の東郷から今市報徳役所に移った尊徳は殆ど病床に臥し、翌3年になると病状は一進一退をくり返し、当代の名医がつぎつぎと駆けつけて治療に当たった。 その一人が壬生藩医の齋藤玄昌である。
玄昌は何度も来診した。帰ったその日に迎えに行くという状況で、片道九里、一日行程の地から玄昌は不便を押して往来した。10月に入り病状は重くなり20日、家族や門人に見守られながら息を引き取った。遺体は如来寺境内に葬られた。