女性看護人
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弘田親厚

○ 丹波山国隊と玄昌の診療

 戊辰戦争の時、因州藩(官軍)に加わって幕府軍と各地で転戦した丹波・山国郷の農兵組織「山国隊」の隊員が、下野・安塚の戦いの銃撃戦により死傷した。この負傷者を診察したのが因州藩の従軍医である。しかし「瀕死の重傷のため、治薬の及ぶ所に非ず」と放置、その後、壬生藩医の齋藤玄昌を招聘して、治療を託して見事に快癒させた。戊辰戦争は従来の刀創(白兵戦)から鉄砲(銃撃戦)へと変わる近代戦でもあり、また、医療技術も漢方から西洋医学へと変わるものであった。

○ 壬生城内 土佐藩野戦病院と女性看護人の採用

 安塚の戦いの時、壬生城周辺の戦闘が熾烈となり、土佐藩(官軍・隊長 板垣退助)にも戦死5名、負傷者19名を出し、土佐藩従軍医弘田親厚は壬生城二の丸内に野戦病院を設置し治療に当たった。慶應4年(1868)4月24日には傷兵が続出したため「銃創看病人として此地の婦人9人雇入、養生局へ差置ける」として女性の看病人を採用した。これは国内初の女性看護人の実例となった。これまで国内初の女性看護人を置いたのは、同年閏4月17日の横浜軍陣病院とされていたが、約1ヵ月早まることになった。