齋藤玄昌
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種痘の図

○ はじめての予防接種

その頃、日本中で恐れられていた病気に天然痘(ほうそう)という病気がありました。下野国でも多くの人々が天然痘に苦しんでいました。
そして、玄昌の子供も天然痘に冒されていることが分かりました。手の打ちようもなく、天然痘は6人の子供に感染して、玄昌の子供たちの命を奪ったのでした。
嘉永2年(1849)7月、長崎でオランダ商館医から取り寄せた種痘(天然痘のワクチン)を使い日本初の種痘に成功します。いち早くそのことを知った玄昌は、いてもたってもいられず、長崎へ弟子を行かせて種痘を手に入れてくるように命じました。
(※ 種痘はイギリスのジェンナーが発見した方法で、天然痘にかかった牛から取り出した種痘を人の体に傷をつけて植え付けて病気を予防する方法です。種痘をすれば体に免疫(病気と闘って勝つ力)ができて、2度と天然痘にかかることはないのです。)
しかし、予防接種をすると牛になってしまうと信じ込んでしまっている人が多く、誰も診療にすら来てくれなくなりました。役所に向かっても日本には漢方薬があるからと言って全く取り合ってもくれませんでした。
種痘には期限があり、使えなくなってしまうと悩んでいた玄昌に、藩主鳥居忠挙がたずねました。

忠挙: 「玄昌、種痘をすると本当に天然痘にならないのだな」

玄昌: 「はい、お殿様。一生かかることはございません。しかし、町の人々は皆恐ろしがって受けようとはしてくれないのです。本当に恐ろしいのは種痘ではなく、天然痘なのです。」

忠挙: 「分かった。では、私の息子に種痘をしてくれ。ただし息子にもしものことがあったときは、お前の命は無いものと思え」

玄昌: 「わかりました。必ず忠宝様と忠文様のお命を恐ろしい天然痘から守って差し上げます」

玄昌の命をかけた行動が藩内に伝わって急速に種痘の信頼が高まり、壬生藩には種痘館までできました。
町の人々には強制的に種痘が行われ、藩の隅々まで種痘のありがたさが伝わりました。その後も天然痘の流行はありましたが、種痘を受けた人々は誰も病気にかかることは無かったと言う話です。