齋藤玄昌
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解剖

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○ 新しい医学が広まる

齋藤玄昌が下野国壬生藩医となってから6年目の天保11年(1840)、12月壬生上河岸の刑場で解剖が行われることになりました。

この解剖を行う医師は齋藤玄昌と藩医の石崎正達の二人でした。そのころ江戸(現在の東京)では人の体の正しい解剖図を載せた本は出されていましたが、下野国(現在の栃木県)ではまだ人の体の解剖を行った人はいませんでした。
その頃は学問や人の命を救うためと言っても、死体を解剖する事は、気味悪がって誰もしませんでした。

「玄昌はこの解剖によって今まで日本に伝えられてきた人の体の仕組みがかなり間違っていたことや、西洋の医学が正確で大変進歩していることを改めで実感させられました。

この日から玄昌たちは日夜西洋医学の勉強について励んだのでした。